「ビジネスと人権」の主要課題トップ10を解説~IHRBの年次レポート2026を読み解く~
| 執筆者: | コンサルタント 角田 菜月 |
IHRB(人権ビジネス研究所)※1が2025年12月に発表した年次レポート「Top 10 Business and Human Rights Issues in 2026」は企業が注視するべき「ビジネスと人権に関するリスク」について具体的な指針を示しており、2026年に企業が取り組むべきトップ10の課題と具体的に取るべきアクションが示されています。本記事では、レポート(原文は英語)を読む時間がない方でもそのエッセンスを10分で理解できるよう、要点を絞って解説します。本稿で、人権課題の最新動向を把握するだけでなく、自社に求められる人権リスクへの対応を知るきっかけを得ていただけますと幸いです。
※1 政府・企業・市民社会の間に立ち、政策と実務の橋渡しを行う国際的なシンクタンク
IHRBレポートの信頼性と注視する意義
この年次レポートは、単なるトレンド予測ではなく、コンプライアンスの枠を超えた未来のリスクを明らかにし、多国籍企業の経営層や機関投資家に向けた責任ある行動の提言を目的としています。そのため、世界の専門家へのヒアリングを経て作成されています。日本企業にとって、欧州発のルール形成の背景にある文脈を理解し、数年後の経営課題を先取りするための、極めて信頼できる情報源です。
今年のレポートのメインテーマは“「分断と反発」が現実のものとなった世界で、企業がいかに軸を保つか”という覚悟を問う内容となっています。ちなみに昨年のテーマは「不確実性の中での責任ある行動」でした。
「分断と反発」とは具体的には、米国での「反ESG」運動の激化や、欧州におけるサプライチェーン法制(CSDDD)の審議難航など、サステナビリティ推進への逆風が背景にあります。こうした経済ナショナリズムに起因する分断は企業が拠り所として期待していた国際的な基準や多国間システムを麻痺させています。特定の取り組みを「政治的な分断をもたらすもの」と見なす風潮も強まっており、実際に支援を積極的に後退させる企業も出始めています。かつては評価された人権への取り組みも、いまでは政治的な攻撃材料として取り上げられることがあります。だからといって摩擦を避けて黙るのか、それとも大切にしてきた価値観を大事にし続けるのか、企業にも難しい判断が求められる時代です。
日本企業も、海外事業やサプライチェーンを通じてこうした動きの影響を受ける可能性があります。各国の政策動向や社会的な議論の変化を踏まえながら、自社の方針や取り組みをどのように位置づけるかを検討する必要が高まっています。
2026年版の「ビジネスと人権」課題トップ10の解説
本レポートでは、変化の激しい国際情勢や法規制の動向を踏まえて、「ビジネスと人権」におけるトップ10の課題を以下のように示しています。
- Overcoming corporate hushing and sustainability backlash(企業の沈黙とサステナビリティへの反発への対応)
- Surmounting setbacks in sustainability legislation(サステナビリティ関連法制の後退への対応)
- Unlocking insurance to advance human rights(人権推進に向けた保険の活用)
- Protecting workers from AI exploitation and discrimination(AIによる労働者の搾取・差別からの保護)
- Strengthening use of AI in due diligence and audits(デューデリジェンス・監査におけるAI活用の強化)
- Engaging new players in the defence sector(防衛分野への新規参入企業への対応)
- Embedding rules to prevent war-crime complicity(戦争犯罪への加担防止ルールの組み込み)
- Understanding risks in asylum and immigration services(難民・移民サービスにおけるリスクの把握)
- Plugging labour shortages in the green jobs market(グリーン雇用における人材不足への対応)
- Confronting the human rights risks of the crypto industry(暗号資産業界の人権リスクへの対応)
出典 「Top Ten Business and Human Rights Issues in 2026」を基に筆者邦訳
ここでは課題を、①全社的・組織横断的に対応が求められる人権課題、②特定の事業・セクターや活動地域によって関連性が高い人権課題に分類しました。レポートで取り上げられている概要を踏まえ、企業に求められる対応の考察と関係部署も列記します。
表①:全社的・組織横断的に対応が求められる人権課題
(主にガバナンス、人事、調達、サステナビリティ部門に関連するもの)
環境活動の非公表(沈黙)とサステナビリティへの反発(No.1:Overcoming corporate hushing and sustainability backlash)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
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| 関係する部署 |
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サステナビリティ法規制の停滞・後退(No.2:Surmounting setbacks in sustainability legislation)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
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| 関係する部署 |
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AI開発・運用における労働者の搾取と差別(No.4:Protecting workers from AI exploitation and discrimination)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
|
| 関係する部署 |
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サプライチェーン管理でのAI活用の強化とリスク(No.5:Strengthening use of AI in due diligence and audits)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
|
| 関係する部署 |
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表②:特定の事業・セクターや活動地域によって関連性が高い人権課題
人権推進のための保険の活用(No.3:Unlocking insurance to advance human rights)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
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| 関係する事業/地域 |
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防衛産業新規参入者の責任(No.6:Engaging new players in the defence sector)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
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| 関係する事業/地域 |
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戦争犯罪への加担防止(No.7:Embedding rules to prevent war-crime complicity)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
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| 関係する事業/地域 |
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移民・難民支援サービスにおけるリスク(No.8:Understanding risks in asylum and immigration services)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
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| 関係する事業/地域 |
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脱炭素関連の労働力不足(No.9:Plugging labour shortages in the green jobs market)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
|
| 関係する事業/地域 |
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暗号資産業界の人権リスク(No.10:Confronting the human rights risks of the crypto industry)
| 課題の概要 |
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|---|---|
| 企業に求められる対応 |
|
| 関係する事業/地域 |
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出典 Top Ten Business and Human Rights Issues in 2026を基に筆者作成
注目すべき3つの新テーマ:沈黙・保険・暗号資産
2026年版では、これまで人権リスクの主要テーマと見なされてこなかった「“口を閉ざす”という企業姿勢」(沈黙)や「保険」、「暗号資産」が、新しいリスクとして注目されています。
まず、批判や対立を気にして、良い取り組みのアピールをやめてしまうこと(沈黙)は投資家からの信頼を損ねてしまうため、新たな組織運営上のリスクとして位置づけられました。この背景には、サステナビリティの取り組みに対する政治的な反発や訴訟リスクの高まりがあります。またこれと並行して、企業が対処すべき人権リスクの最前線は、工場などの物理的施設から、AIや暗号資産といったデジタル空間、さらには複雑な金融セクターへも急速に拡大しています。企業は、従来のサプライチェーン管理に加え、自社のサービスや広報姿勢が社会に与える影響を再評価し、包み隠さず情報を出すことを大前提としながらも、伝え方については慎重な判断が求められます。
次に、気候変動による自然災害の増加で保険料が高騰しているリスクです。保険会社がハイリスク地域から撤退し、保険の引受停止が起きている国もあります。その結果、本来保険を最も必要とする人ほど保険に入れない状況が生まれており、誰もが金融サービスを利用できる状態(金融包摂)という観点から、新たな格差の問題が指摘されています。こうした問題は、そうした地域に拠点を持つ企業にとっても他人事ではありません。労働者が生活を立て直す手段を失えば、事業を続けていくこと自体が難しくなる恐れがあるからです。そのため企業は撤退を決める際にコストや利益の面だけで判断するのではなく、労働者への影響を踏まえた判断が求められます。セーフティネットがない労働者に対し、公的支援との連携を含めどのように生活の支援を行うかという人道的な視点が必要といえます。
そして、暗号資産業界が今回初めてトップ10入りしました。マネーロンダリングや人身売買などの違法活動に利用されるリスクに加え、マイニングによる環境負荷の増大という、新しい技術の裏に隠れたマイナス面が問題視されているからです。市場拡大に伴い、この領域も従来の金融機関に準じた厳しい管理が求められる段階になってきたといえます。この領域に参入する日本企業には、利便性だけでなく、悪用されたり環境被害を誘発したりしないよう、最初から業界のベストプラクティスを意識してルールを作っておくことが欠かせません。
「ビジネスと人権」リスクの新たなフェーズ、今起きている5つの変化
続いて、2026年版レポートが指摘する「分断」の世界において、特に変化があった5つの主要テーマについて、リスクがどのように変わり、深まっているのかを具体的に見ていきます。
2025年版の「不確実性」から、2026年版は「人権リスクの急所(プレッシャーポイント)」へと視点が移りました。企業は政治的な対立やESGへの反発といったプレッシャーの中で、「人権を重んじる姿勢」をどう貫くかが問われています。
まず、AIリスクの変化に伴いAI開発の裏側にある過酷な労働や、AI任せのサプライチェーン管理が引き起こす、新しい人権侵害への警戒が強まっています。ここでいう変化とは、「倫理」から「現場の実務」へと移行したことを指します。2025年版ではフェイクニュースの拡散やAIの偏見がメインでしたが、2026年版では、データ入力をする労働者の劣悪な環境や、安易にAIを導入したことで起きる「ハルシネーション」による誤判断など、実際にAIを運用する中で人を傷つけてしまうリスクが顕在化しています。
次に、企業の戦争犯罪や国際人道法違反に関して、2026年版では、クラウドやAIを提供する一般企業が、自社のサービスを軍事利用されることで、知らないうちに残虐な行為を手助けしてしまう「ハイテク兵器への加担リスク」が指摘されています。「国の安全保障のため」という説明だけでは十分とは言えません。提供した技術が最終的にどう使われるかまでしっかり追いかけ、意図せず争いに加担してしまわないよう、技術の使われ方について全社を挙げて見守る姿勢が求められています。
また、ビジネスと人権に関する法規制に関して、2025年版では新しい法律への対応が中心でしたが、2026年版では、ルールの遅れや反ESGの動きを気にして、企業が良い取り組みを隠してしまう「グリーン・ハッシング」が深刻な問題になっています。黙っていることは、かえって関係者の不信感につながるため、法律があるかどうかにかかわらず、自分たちから積極的に発信し行動していくことが欠かせません。
そして、環境と人権に関するリスクにおいては、2025年版では土地の利用や鉱物採掘の影響が注目されましたが、2026年版では、気候変動関連ビジネスの急拡大による専門スキルのある人材の不足が最大のリスクとされています。人手不足は、不透明な下請け構造や移民への依存を強め、強制労働が起きやすい環境を作ってしまう恐れがあります。
最後に移民労働者についてですが、2025年版では一般的な移民労働者をどう守るかがテーマでしたが、2026年版では、収容施設や生活支援の「民間への委託そのもの」がリスクの火種として指摘されました。コスト削減ばかりが優先され、不衛生な環境や虐待が起きてしまうケースがあり、委託元は、業務を受託した企業をしっかりと監督することが求められています。
揺るがないレジリエンスの構築
企業は「ルールだから守る」という受け身の姿勢から「実質的に必要だからやる」という能動的な姿勢に変わっていく必要があります。批判を恐れて良い取り組みまで隠してしまう「企業の沈黙」が広がる今だからこそ、ポーズだけの対応ではなく、リスクの芽を根本から摘む本質的な取り組みが、結果として会社を守ることにつながります。
日本企業では、「昔からそういうものだから」と人権問題が見過ごされているケースが少なくありません。これは人権問題は目に見えにくい上に、現時点では日本はEUに比べて法規制が明確ではないことが背景にあります。例えば、複雑な下請けの仕組みや外国人労働者の働き方なども、「業界の常識」として放置してしまうと、後になって世界中から批判を浴びるような事態に発展する可能性もあります。
企業がこうしたリスクに向き合うには、現場のメンバーを巻き込み、ワークショップなどで「何が問題なのか」を一緒に考えながら、会社全体の意識を変えていく必要があります。経営トップだけでなく、仕入れや製造の最前線で働く一人ひとりがリスクを「自分事」として捉え、日常のちょっとした違和感を見逃さずに直していく。そんな風土を作ることこそが、本当に現場で活きる「真の企業力」になるのです。